遺伝子が発現するのか、遺伝子は発現されるのか?
「遺伝子が発現する」という日本語の用法(表現)がすっかり定着してしまっているので、改めて 「遺伝子は発現される」などと言い出すと、 多くの人達が違和感を感じるだろう(注1)。日本語の中だけであれば、いまさら問題は無いのかもしれない。しかし、英語論文を書き初めた頃の人は、 The genes express ... という英語を書いてくる。それまでに多くの英語論文を読んでいたにもかかわらず、だ。そこで The genes are expressed ...だよ と注意しなくてはならなくなる(注2)。
この間違いの原因は2つあると思う。1つは英語の用法の問題、もう1つは日本語の問題である。
英語 express の用法 意味
手元の英英辞書(注3)では、expressの第1義を他動詞とし、To set forth in words; state. としている。 言葉にして(自分の考えを)明らかにする(こと)。述べる(こと)である。 それが少し拡張されて、言葉に限らず動作(身振り手振り、ジェスチャーなど、表情でも)で発意することも含まれるようになり、さらには、表現する・描写するという概念へと 発展してきたようだ。同英英辞書には The painting expresses the rage of war victims. の用例が記載されている。
遺伝学での使用
遺伝学の分野に、生物個体の遺伝的性質の違い、表現型 phenotype という概念が導入されたとき (Johannsen 1909)、それを受ける動詞としてexpressが使用された。
An individual (of an organism) expresses a phenotype. の形(構文)である。
一方、遺伝子 gene もほぼ同時期に、同じJohannsenによって導入されたが、当時は全く仮想的な存在であり、実体解明は約50年後のことである。
Johannsenは geneによって規定される型を genotype と名付け、genotype と環境との相互作用によって表現型が定まるとする "Norm of reaction" 説を唱えた。
この時に、genotype は phenotype と並列として表現されたので、An individual (of an organism) expresses a genotype. という表現も当然なされている。
このようなこともあって、expressする主体、つまり主語となるのは ”生物の個体” である。すべての生物は細胞から成り立つとする ”細胞説” は当時すでに確立していたから、
expressの主語は(細分化したとしてもせいぜい)細胞までであって、遺伝子は細胞の一部(部品)にしかすぎないから主体にはなれない。
phenotype も genotype(つまりgene)も、個体が発現する(ことの)対象物、つまり目的語となるのだ。
したがって、The gene を主語に文章を組み立てると受動態(受け身型)となって、The genes are expressed. となるのである。
geneは自律的に発現するのではない。英語表現に合わせると、遺伝子は細胞構成要素である酵素やリボゾームの作用によって、発現させられているのである。 この感覚は 「遺伝子が発現する」 と普通に使用している多くの日本人達に ”違和感”を生じさせるかもしれない。
20世紀後半に分子生物学による遺伝子発現機構の解明が進み、今日では、遺伝子が主体となるような遺伝学的概念も生まれている。 たとえば、Dowkins博士の著作で広く知られた”利己的遺伝子”説では遺伝子が主体であり、細胞はその乗り物にすぎないと提唱している。 そうした流れも含めて、遺伝子は主体的に発現するという感覚を持っているとしても不思議ではない。しかしそれは、分子生物学・遺伝学がもっと進んだ後のことである。 gene, phenotype, genotype 用語が導入された当時の事情はが違うのである。
日本語 漢語に”する”をつけたサ変動詞の活用の問題
漢語に”する”をつけてサ変動詞とする方法は大変に便利な仕組みである。日本では学術用語の多くが明治以降に導入されており、そのほとんどは漢語で表記されている。 最近ではカタカナ語として導入されるものが増えてきたが、それはそれで問題を起こしている。”ハイブリダイズする”というように、動詞に”する”を連結させる表現であり、 その問題は別の機会に書きたいので置いておく。
この”漢語+する”が自動詞なのか他動詞なのかの区分、さらには使い分け、誤用/変遷については多くの専門的な研究がなされているようで(注5)、 またWebにも多くの記述がある。 三省堂国語辞典はこうしたサ変に自動詞他動詞の区分が表記されている(稀な)辞典であり、大変参考になる。同辞書によれば、”発現”はサ変自他でありどちらにも使用できるとなっている。 よって、発現に関しては、日本語的には問題が無いことが分かった。遺伝子発現に対しては英語との関係で問題があるのだ。
ただし、漢語+する のサ変動詞については、日本語を論理的に使うに際し大きな問題がある。 阿久根信之「翻訳者日記」にあるように ”ボルトを回転する”と翻訳するように指示されている という日本の現状を大変に憂えている。
ワトソン 組換えDNAの分子生物学 第3版 の訳出時には共訳者・編集者を完全に説得するまでには至らなかったので、やむを得ず、遺伝子が発現する・発現される が混在となっている。 ただし、同書は実験を通じて分子生物学に対する理解を深めるという趣旨もあって、実験例の記述が多い特色がある。 具体的な実験例の説明では、潜在的な主体は実験者であるから、たとえば、培養細胞に遺伝子を導入してA遺伝子発現を解析するという場面が紹介されたときには、 ”A遺伝子を発現させ、”と使役型を使うように努めた。
その他の用例
細胞が分裂した Cells were divided...