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ヒト遺伝学

このページの設問は、成育医療センターへ改組される直前に開催した 公開シンポジウム 「小児医療から成育医療へ ―すこやかな次世代を育むために―」 (平成成14年1月19日(土) 東京国際フォーラムD501会議室で開催)で 一般の方からいただいた質問に基づいています。 質問は事後に紙で受け取り、回答はnch-netのWebに記載していました。
2005.06.07 最終更新日 2006.11.24
今回、Webを再構築するにあたり、再掲載します。

病気の遺伝子が蓄積すると、何億年かの後で人類が滅亡するような危機にならないか。

現代の生物学の知識に基づけば、多数の細胞から構成される生物 (多細胞生物) の個体に「死」があるように、種としての命にも限界があり、 どんな生物種も永久には生存できないと考えます。そのような意味で、遺伝、環境の変化、人間の行為、どれが原因となるのかわかりませんが、 人類が絶滅する時はありうるでしょう。 少なくとも自分の世代、あるいは子や孫の世代に絶滅したくないと、人類は英知を持って対応するでしょうが、 遠い将来のことまではわかりません。

一方、御質問の趣旨を前半部分に限って、「従来ならば早死にしてしまったであろう遺伝病の患者さんが治療を受け、 治癒して成長し、子供をつくることができるようになると、病気になる遺伝子を子孫に伝えることになる。 そうすると、人類全体の遺伝子(プール)で、病気になる遺伝子が増えていくのではないか」と置き換えてみます。

このような問題を研究するのは 集団遺伝学と呼び、数学的モデルを作成して計算し、特にはコンピューターによるシュミレーションで回答を求めます。 私はその分野の専門家ではありませんが、集団遺伝学の研究者達の結果を紹介します。

常染色体優性遺伝病については、このような治療が成功した後のしばらくの間(世代)、病気の遺伝子の割合(疾患対立遺伝子頻度)は 増加していきます。世代の間の病気の遺伝子の増加分は、正常遺伝子が突然変異によって病気の遺伝子に変わる分に相当し、 また、病気になる人の数は等差級数的に増加します。病気の遺伝子が集団の中できわめて稀だからです。 たとえば100万人出生あたり1人の患者という病気では、10世代後に (最近の傾向だと300-400年後?)に 100万人あたり11人となります。 しかし、そのままどんどん(無限に)増え続けて、正常遺伝子を圧倒してしまう ということにはつながりません。 ある程度の割合を占める遺伝子の頻度は 次世代でも同じ割合となる ということは別の面から証明されており ハーディ ワインバーグの法則 として知られています。 したがって、ある程度までは増えるだろうが、やがてある割合に落ちつく傾向となり、また、確率的に変動する (random drift) と考えられます。 どの程度の割合で落ち着くかは その対立遺伝子の適合性との関係で決まることです。

常染色体劣性遺伝病についても、同様に、病気の遺伝子の割合(疾患対立遺伝子頻度)は増加しますが、 いくつかの点で、 常染色体優性遺伝病の場合と異なります。常染色体劣性遺伝病の患者さんは、一般的には稀だといえますが、 たとえば1万人出生あたり1人の患者という病気は、劣性遺伝病の内では比較的多い(頻度の高い)病気です。 その病気の遺伝子の割合は、皆さんが考えておられる以上に 、すでに、相当に高いのです。 一見健常に見える人たちが病気の遺伝子を持っている割合を保因者頻度と呼びますが、1万人に1人という病気では、実に50人に1人が 保因者 (病気の遺伝子を持っている人)です。病気の遺伝子の割合は、病気ごとに大きく違いますが、主な劣性遺伝病だけで、 どんな人も数個の病気の遺伝子を持っていると推定されるほどです。 近親婚によって遺伝病の子供が生まれる確率が高くなるのはこのためです。 治療によって子供をつくるようになった場合、病気になる人は増加しますが、病気の遺伝子の増加よりゆっくりと増加することになります。 保因者頻度に比例することになり、現在1万人に1人という病気でしたら、10世代後に 1万人あたり1.2人となる程度です。

このように、遺伝病の患者さんの治療が成功し、その人たちが子供をつくると、病気の遺伝子の割合が増えることは確かです。 しかし、集団遺伝学が導く結論は、多くの皆様が描いているイメージと大きく 違います。

まず、増えるといっても、その増加率と程度は 限定的です。
第二に、増える原因は、特にきわめて稀な遺伝病では、自然に生じている突然変異の結果であり、 患者さんが子孫をつくることは割合を維持しているだけで、増加させる直接原因ではありません

そもそも、治療によって子供をつくれるほどになった ということは、自然あるいは社会に適応できていることを意味すると思います。 したがって、 このような状態になった場合には、病気の遺伝子というよりは、もはや多型と考えたらどうでしょう。 多型をわかりやすく説明するには血液型の例を取り上げるのが一番です。 日本人集団ではA型の人が約40% (遺伝子型としてはo対立遺伝子が多い) を占めますが、世界には、 BあるいはO型の人が多数を占める民族・集団もあります。これは ヒトの遺伝的多様性の反映です。注1

遺伝の「優性」と「劣性」という用語には、優秀・劣悪の意味が付きまといます。「顕性」とか「表現性」など価値感の加わらない言葉に変える必要があると思います

講演の中でもお話したように、dominantを「優性」  recessiveを「劣性」と翻訳したのは、価値観を伴う優劣=優秀と劣悪 を決めたようで、 良い訳であったとは思いません。「顕性」という言葉も一時的には使用されていましたが、それに対するのは「隠性」で、これも少し暗いイメージがあるためか、 「顕性」「陰性」は次第に用いられなくなりました。 「潜性」という用語も一時的に用いられたようです。

わが国では特に、「遺伝」という用語が「病気」と結びついて考えられることが多く、(すなわち遺伝病) 暗いイメージを持つ用語となってきていました。 「遺伝病」と聞くだけで衝撃を受けるのに、「劣性遺伝病」と聞いて二重のショックを受けた と いう話も聞いています。 「遺伝」に対して、「遺伝子」や「DNA」は近年のバイオ関係の隆盛によって、むしろ明るいイメージとして認識されていると思います。

用語は、それを用いる人に共通する概念を表すものですので、時として、実態を離れた印象までも共有することになります。 それを避けるため、最近の例では、「ライ病」を「ハンセン(氏)病」に、また「精神分裂病」を 「統合失調症」と変更されました。

一般的に、用語を替えることに反対するものではありませんが、用語の持つ正しい意味を理解していただきたいとも思います。 そのためにこそ、科学による実証と、科学的な思考が必要なのだと考えます。

どうして 優性と劣性の区分ができるのですか?

別ページ 優性遺伝病と劣性遺伝病がある理由 に記載しました。優性と劣性の分子メカニズムも参照ください