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空間と時間を表す用語

NHK番組 「チコちゃんに叱られる」でのテーマ 鏡はなぜ左右逆に映る?の回答を求めて順次進めている。前ページまでで、 3次元空間の基本軸である 上下・前後・左右の説明とともに鏡像における左右まで説明を一応終えた。ここでは、医療の現場での左右の呼び方に関わる問題についての紹介と、私の雑感を記す。

人体解剖図は 対面者の視点で 正面から見た図が一般的

検索サイトで ”人体解剖図” と入力し、画像を検索してみよう。現れる画像のほとんどが人体を前から見た像であることが判る。なかには丁寧に、背面から見た図と併用で、 また人体の特定部分のみ、さらには少数だが無関係の画像もある。検索枠に”消化管” と付け加えると絞り込まれてわかり易くなるだろう。

消化管とは口から始まり、咽頭・食道・胃・十二指腸・小腸・大腸を経て肛門に繋がる1本の管であり、口から食べた食物の通り道である。 この消化管全体図の 向かって左下、小腸から大腸に入る部分から、ひらがなの「の」の字に曲がっていくことが判る。 大腸は、図に向かって左下に位置する小腸との結合部位(回腸口)から、やがて上に向かい、 次に横に左から右へと向かい、次に下向きになる。この横の部分を横行結腸という。 横行結腸での食物(すでに相当消化されていて便(べん)に近いのだが、糞は排泄されてからの呼び名だろう)は 図では左から右へ移動する。 しかし、人体の中では右から左へ移動するのだ。同様に、回腸口は 図では向かって左下なのだが、人体の右下腹部にある。 俗にいう盲腸炎、これは回腸口の近くに在るある虫垂突起の炎症に起因するのだが、人体の右下腹部にメスを入れることになる。

このように左右の表現は視点によって逆になる。つまり、観察者の立場か、(患者)本人なのか。 もう1つ重要なのは運動方向である。消化管では口から肛門へと方向を決めている。これは食物の移動の方向で、私はたびたび流れと表現する。 仮に静止状態であっても、視線の方向で前後軸の方向を決定している。

右回り 左回り 右巻き 左巻き

左右に関わる問題で、右(左)回り、右(左)巻きについて多くの混乱がある。この問題については既に多くの人達が指摘し、紹介するウエブサイトも多いので簡略にとどめるが、 視点(観察者の位置)と流れのいずれかを変えると反対になるからである。 たとえば、植物の蔓の巻き方についても、たとえ観察者の視線は同じでも、植物の生長方向を流れの向きと取るのか、あるいは別の観点で流れを決めるのか、結果ま逆になる。

欧米では古くから、観測者の視点を固定化し、かつ運動方向(流れ)をあらかじめ加味した表現である  時計回り反時計回り clockwiseとanticlockwiseあるいはcounterclockwiseという表現を使う。 時計を裏側から見る人はまず居ないから流れはおのずと規定されている。その運動方向は便宜的ではないかという批判があるかもしれないが、今日使用されている時計の針の回り方(右回り)は日時計の回り方であり、 太陽の運行、すなわち地球の自転を反映させたものだ。恣意的でなく、一定の根拠を持つ。しかしこれとても、北半球に限った話である。 なぜ文明が北半球に起こりまた発展してきたかについて考察をした本を紹介しておく。

銃・病原菌・鉄 1万3000年にわたる人類史の謎  ジャレド・ダイアモンド (著), 倉骨彰 (翻訳)  今では、上下2冊の文庫本として草思社から発刊されている 2012年。

医学は医者の養成課程でもある

医学には病気(疾患)の原因を見出したり、治療法を開発するという目的はあるものの、同時に将来に患者を診るだろう学生の養成も担っている。 したがって、将来対面するだろう患者を見るという視点で、こうした人体解剖図が描かれるのは理解できる。

脊椎の位置

正面から見た図が描かれるもう一つの事情がある。それは背面から見ると、背骨(せぼね 学問的には脊椎 せきつい)が邪魔をして、 構造上複雑である内臓諸器官の描写を妨害するのだ。この点は、描画という実用面だけでなく、生物進化に関係する重要な点である。

進化の過程で脊椎という、いわば基本構造体、基本骨格を獲得した。脊椎動物の誕生である。現在見られる魚類では、背骨は水平方向に伸び、 輪切りにした胴体のほぼ中央に位置し、内臓諸器官は腹側(重力方向と同じ 下)に位置している。
脊椎動物の発生において、背腹軸形成に関与する分子/遺伝子がいくつか発見され、実験的にもそれらの機能が実証されてはいるものの、 根本的な意味で、なせ内臓が腹側に形成されるかについては判っていない。ただ結果的に、進化に都合が良かったのだろう。 特に魚類から陸生に移ると、情報制御系である脳はもちろんだが、内臓も大きく発展する。水中では水からの浮力によって重力荷重は低減されるが、 陸上では内臓諸器官の重みが基本骨格に加わる。この場合、ぶら下げるのが良いのか、背負うのが良いのか、前者の方が安定的なことは容易に理解できる。
進化の最終段階で、ヒトは2足歩行により直立した。最終段階という表現は、現在までの生物進化の長い時間の内の、現在に近いほんの短い時間という意味である。 また、人類は進化の頂点に位置するという概念を持つ傾向が強いが、生物進化を冷静に考えるならば、現存する生物種すべてが進化において同列であると考えるほうが好ましい。 なかなかそういう理念は深まらないだろうが。
直立した姿に基づけば、我々ヒトの構造で、基本骨格はもう少し中央寄りに位置し、内臓も周辺にバランスよく割り振ってあったほうが望ましかったのに、と腰痛に悩む私は思う。

一般の多くの人達に定着したと思われる進化のイメージを少し変えさせようとする意図を感じて次の本を紹介したい。
「退化」の進化学―ヒトにのこる進化の足跡  犬塚 則久 (著)  講談社 ブルーバックス 2006年

NHKテレビで2007年から2009年にかけて「解体新ショー」が放映された。この番組の企画段階から意見を求められていた。 私は当時から、ヒト遺伝病に対する偏見や進化についての少し偏ったイメージを修正したいという考えを持っており、その具体例として、犬塚博士が書かれたいくつかの例を紹介した。 私の解剖学の知識は犬塚博士に到底及ばないが。 NHK内部でのいくつかの企画変遷があり、結果としてあの番組となったと聞いている。その中で、私の考えを少しだけは取り入れていただいた点に感謝している。一般的には突然変異を嫌うが、突然変異が全て悪いということではない。牛乳がぶ飲みできるのは欧米人(そしてアフリカ系の一部)に生じた突然変異のおかげ。乳糖不耐症は”病気”ではない。

さて、医療現場における左右の話は、次 X線写真(レントゲン写真)に続く。
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